はりおのエンタメ部屋

エンタメの話する

鬼滅がパヤオを越すのでは無い、パヤオにコンテンツが追い付いたのだ

鬼滅の刃をアニメの出来がいいから売れた。と言う人が結構いる。

アニメで気になって原作を最終巻まで読んだ私は半分合ってて、半分間違っていると思う

実際アニメの出来は凄い但し原作で他のコンテンツを完全に上回っているポイントがある。

原作の物語を紡ぐテンポへの、一切の妥協のなさだ

現代の作品はキャラクターが濃ければ、結果 物語が面白くなると言う構図で出来ている。

勿論、鬼滅の刃もこの構図を踏んでいてパッと観ただけでそのキャラ性格や技などが分かる様になっている。

この事には弊害もあってキャラクターを濃くすると言うことは、キャラクターの一人一人に膨大な量の設定やプロットが付きまとう事だ。

作者としてキャラクターは、一人一人設定やプロットを紡いだ子供みたいな者だ。

個人をフューチャーし過ぎた結果、回想や過去編などが肥大化して、本編のテンポを著しく損なうのだ。

さて、鬼滅の刃はと言うと折角、一生懸命考えたであろうプロットが、作品のテンポを損なうと判断されるとバッサバッサ斬られてゆく、何なら単行本で文字で捕捉を入れる。

正直回想と過去編をもっと膨らませば10巻は伸びただろう、それ故の圧倒的テンポである。

題名に戻る、そんなコンテンツの作り方をしている作者を他にも知っている。

宮崎駿だ、彼はプロットや設定を作り混みまくり映画と言う二時間の枠に収まる様に徹底的に、自ら描いたプロットを捨てている。

工程や作風は全く違うし結語も違うが、彼らはテンポの為に自分の空想の結晶を吐き捨ている。

この覚悟によって出来た密度が、現代のビッグヒットコンテンツたる所以だと私は考える。